Floating Island

絵画と詩のこと。

帰省

先月、実家に帰省して暫く制作をしていました。

 

雨が多かったのでパネルに張った紙が水を含んで柔らかくなり、ペン先が紙に沈み込むような感じがしていました。微かな差なのですがコンディションが違うと紙に引く線の表情も違ってきて、東京で制作していた時とは別の表情が見えました。

 

描くとき、いつも頭の中で雨がしとしとと降る音が再生されていますが、今回は本当に雨が降っていたので不思議な感じがしました。同時に、いつも頭の中で繰り返されていた雨音は、ここで聴いた音だったのだと気付きました。生け簀の水面を叩き、庭の土を濡らし、屋根を伝う水の音。車通りは少なく、濡れた地面をタイヤが転がる音はめったに響きません。東京に住んでいた頃に聴いたものとは全く別の音でした。

 

長野の四季は関東や関西と1ヶ月半ほどずれているような気がします。

まだひんやりとしていましたし、居間にはこたつがありました。

制作の合間、近所を散歩したり畑の土手でコゴミという山菜を採ったり。

散歩の途中ではスギナが群生しているのを見つけました。

 

家の近所に小さな池があって、ほとりにスズランが咲いたりするのが綺麗ですが、毒があると知ってからはあの小さな花がほんのり妖しく、より純粋に見えます。

水田も多いのですが、まだ田植え前だったので水面に空や樹が映って小さな湖みたいになっていました。

 

水のある景色を見ていると落ち着きます。

海よりも、こういう池みたいな場所が好きです。

なんだか近しい感じがするから。

 

地元は、空気が蒼くて空が広かったです。

歩くのが楽しいのは、やっぱり街なかではなくてこんな場所です。

離れてみると良いところだったんだなぁと気付きます。

 

庭には祖母が育てたフクシアが咲いていました。

祖母は最近、クリスマスローズにも凝っていて色々な種類が気になるみたいです。

前に、私は斑点があるものよりないものが好き、と言ったら「ばあちゃんも」と言っていました。

八重のものも可愛いし、趣味の園芸を観ていたときに、違う種類同士を交配させてあたらしいものを作るのも楽しいんだと園芸家の方が言っていて凝り性の祖母にはうってつけの花なのではと思いました。

 

買い物に行ったとき、ちょうど雨があがって山の中腹が白くガスっていました。

雨上がりのこんな景色が好きでした。

ちょっと幻想的です。風がないので横にまっすぐのびていますが、風がある時は煙みたいに上にたなびいてそれもまた美しいです。好きなものって、小さい頃からあまり変わらないものなんだな。歳を重ねると知っていることも多くなって、好きなものも増えていいな。もちろん、そればかりじゃないけれど。

 

家に帰って、買ってきたねるねるねーるねを作って食べました(駄菓子屋さんに行ったらつい懐かしくなって)。ヨーグルト味だったけど、かなり酸っぱかったような。





 

 

 

グループ展終了

終了してから2週間くらい経ってしまいましたが、今回も無事終えることができました。

ご来廊くださいました皆様、ありがとうございました。

 

作家は全部で10人だったのですが、作品を複数持参した作家が多かったのでボリュームのある空間でした。

額装した作品としていない作品、人を描いた作品と自然物を描いた作品、これらが半々くらいの割合でありました。全員が違うモチーフというのではなかったのでギャラリーの方も被らないように並べるのには苦労されていました。

 

今回は「視力の悪い自分が、眼鏡を外して見た景色」を油彩として描き展示したので、今までとは違う作品でした。ギャラリーの方の反応も、来て下さった方の反応も新鮮でした。

 

こういうタイプの作品も、時間をおいてもう少し作ってみたいです。

アトリエで見ていた時はよく見えたものが、展示してみるといまいちだったり逆もあったりしましたが、総じてもっと完成度を高く、純度を上げなければ…と思いました。

 

メインで描いている線を積み重ねていく作品はボトムアップ型の制作スタイルで、描いていく中で形を整えていきます。ただ今回のような作品をつくるのなら明確にラインを決めて制作する方法をもっと試してみるほうがよさそうです。このタイプの制作ではそれが必要になるんだと、そしてそれがやっぱり苦手だなと痛感したわけですが、これが出来るようになれば他の制作でも応用するのかしないのか、作品のタイプによって使い分けられるし手札も増えるので幅も広げることが出来そうです。

制作は平面絵画にしぼっていますが、その中で「これしかできない」と思うにはまだチャレンジしていない、挫折を味わっていないところが沢山あるのでそれらに取り組んでいく為にも、手札は多ければ多いほどいいのです。

私はかなりタイトな制限をして制作する方が納得できる作品ができやすいので、どうしても「これしかできない」と思いがちだし放っておくと考え方や手段、視野が偏ります。だから作品のタイプを分けることで「こういう作品が作りたい」という願いを叶えるのです。

今回は「現在の私の見ているものを共有したい。等身大の私を知って欲しい」という願いでしたが、今までにはない外に開かれた願いだったので伝えるにはもっと詰めなければいけません。

 

鑑賞する側にとって、きっと制作理由は一番ではありません。描いていると、個人的な理由が優先する場合ももちろんありますが、それよりも何か…大きな流れの中に自分がいて意思とは関係なしにその力の向かう方向へ流れていくのを感じることがあります。

それが大衆の意識なのか、時代の意識なのか、それとはもっと別の何かなのがは分かりませんが、個人的な理由でちまちまと描いているときより大きな流れを感じられたときのほうがなんだが気持ちがいいです。そんな絵をもっと描けたらいいと思います。

作品テーマ

グループ展まで残すところあと10日ほどとなりました。

 

前回ギャラリー彩さんにお誘いいただいたグループ展では、パネル張りのドローイング1点の提出でした。なので、今回はサイズは小さめですが、もう少し点数を多く展示しようと考えています。作品もドローイングではなく油彩にしました。テーマも今までとは違っています。

 

現在、自分の中には大まかに分けて3つの制作テーマがあります。

 

一つ目は線の集積からなるドローイング。

半ば自動筆記のように描く心象風景のようなもので、自分の内側へ深く深く降りていく作業が形になったものです。

形にするうえで、絵ではなく文字という形態をとることもあります。

 

筆で文字を書くとしっくりくるので、製作中に浮かんだ言葉をこうして書き出して形にすることもあります。写真は、雁皮紙に墨汁。

いつか、こういうものも発表できたらいいなと考えています。

どう展示したらいいか、まだ考えられていないのですけど。

 

二つ目は故郷、信州の土着信仰に関する制作。

私の生まれた諏訪という地域は、縄文時代の全盛期、中心となっていた土地でした。実家の近くで小規模な遺跡発掘があったこともあり、以前から興味はあったのですが制作のテーマになったのは偶然の一致からでした。

 

理由も分からず一生懸命描いていた絵があり、何度も手直しをして完成させたあたりで何となく手に取った本があったのですが、描き上げた絵と面白い関連がありました。縄文時代の中に胎盤(胞衣/えな)や石棒を信仰する風習があり、私の絵はまさに 胎盤を連想させるものや孔の複数ある石だったのでとても不思議に思い興味を覚えました。

それ以来考古館に行ってみたり関連書籍を読んだりと、ペースは遅くムラもありますが、諏訪という地域、縄文という時代に重きを置いた作品の構想を練っています。現在は三つ目のテーマに基づいて制作をしているので、上記二つのテーマは簡単なドローイングや文章という作業になっています。

 

今回の展示ではその三つ目、等身大の自分というテーマに基づいて制作した絵を展示します。

等身大の自分…言ってみるとかなり照れてしまうフレーズですが、大学院を修了し、住環境も含め大きく変化した現在の自分を見つめて向き合うことを、描くという行為でかたちにしようと試みました。

 

このうちのどれかは、もしかすると一過性かもしれません。ですが、同じ大地の中の違う地層のものであり、棲み分けは明確なようでいてその実緩やかに繋がっています。

今は緩やかな繋がりですが、将来的にはこれらのハイブリッドとしてひとつの画面に合わさることがあっても面白いと思っています。

香川旅行2

2日目は金毘羅宮へ参拝です。

朝8時頃に行ったのですが、登るときに上から人が沢山降りてきました。

朝、相当早く参拝する人たちがもいるのですね。

 

途中、100段くらい階段を上ったところに備前焼狛犬がありました。

「吽」のほうの狛犬に角がついていたので感激して撮影。

角が付いてる狛犬(正確には狛犬ではないらしいのですが)は諏訪大社前宮でしか見たことがありません。

あとは京都の下鴨神社にもあるみたいなのですが、こちらは本で読んで知っているだけなのでまたそのうち見に行こうと思っています。

 

狛犬が大好きで、金比羅山にはこのあとも至る所に配置されているのがとても嬉しいです。

全部に角が付いたか覚えていませんが、付いていてもなんだか帽子みたいなものもあったりして、格好も体格も様々でした。

 

黄色いお守りを買って、絵馬も記念に持って帰ることにしました。

高橋由一館で「ゴーゴーミッフィー展」をしていて、絵馬もミッフィー

境内へと続く階段はかなり急でした。

でも、涼しい朝の中を桜吹雪を見ながら歩くのは気持ちよく、四国の造船会社から寄贈されたという巨大なプロペラ(6メートルくらい)などもあったりして沢山の見所があります。

 

「ゴーゴーミッフィー展」は初期のポスターの仕事から最初のミッフィー、原画や制作行程の移り変わりまでかなりボリュームのある展示でした。線をポスターカラーで丁寧に描いているところや、いかにシンプルな表現で多くの要素を読み取ることが出来るようにするかという工夫など、 インタビューでも苦心してミッフィーのストリーを作っていることが伺えます。 作者の意図がわかりやすく編集されていました。 個人的に作ったバースデーカレンダーの挿絵も可愛くて、自分もこういうものを楽しんで描きたいという気持ちにさせてくれました。

 

絵本も置いてあって、出版社が福音館書店でした。児童書といえば福音館書店。年を重ねても読み返したくなる本がいっぱいで大好きです。「森おばけ」とか「しろいうさぎとくろいうさぎ」とか。

 

収蔵庫にも立ち寄り、高橋由一の油彩も観てきました。でも、よくわかりませんでした。絵を観に行ってもよくわからないというか、うまくのみこめないことはしょっちゅうなのですが、最近は無理にこじつけて解釈することはやめてしまいました。観るのをやめなければ、この気持ちのもやもやもいつかちゃんと言葉にできるのだと思います。

 

帰りは坂出市の「がもううどん」でうどんを食べました。 20分くらい並んだでしょうか。列は続々と長くなっていきました。揚げをのせて頂きましたが、つやつやしたおいしいうどんでした。

初出:2011年4月23日土曜日

香川旅行1

先週、香川県へ1泊2日の旅行に行ってきました。

1日目は丸亀市のMIMOCAへ。ちょうど杉本博司さんの「アートの起源|建築」が開催中で、人もあまりいなかったのでゆっくり観ることができました。

 

杉本さんの作品って、ジオラマを作って写真にしていたりとか、海とか映画館の写真とかしか知らなくて、一番最近見たのは確か2009年にギャラリー小柳でやっていた「Lightning Fields」だったと思います。今まで雑誌で目にしてきた写真とは異なる展示だったので、確か随分驚いた記憶があります。

そのときは科学者のようなことをする人だなぁと漠然とした感想を持ったものでしたが、作品全体が何処か宗教めいているのを感じました。

 

今回の展示も根底に宗教観があって、たぶんそれは教会や建築の写真や幔幕、蝋燭の炎といった被写体から受けるイメージなんだと思います。

 

中でも、蝋燭の炎が燃え尽きるまで露光して1枚のフィルムに写したものをまた同じように蝋燭で照らして陰を作るといった「陰影礼賛」は面白かったです。

洞窟をイメージした囲いの中で燃えていた蝋燭は、監視スタッフの方に尋ねたところ、たしか福井県産の櫨(はぜ)を使ったものを作家自身が選んで使用したとのことでした(高級品だそうです)。

展示会場にある蝋燭たちはおおよそ3時間で燃え尽きるらしいのですが、煙が少なくてロウも全然垂れていなくてとても美しい蝋燭でした。

じっと見つめていると、なんとも心地よかったです。自分を囲んでくれる暗がりがあり、わずかな灯りがあるというのは、無防備な自分が外から守られるような心地がしました。

 

火を使ったり、囲いを作ったり…それはとても日常的なものだと思っていましたが、こうして「アートの起源」として提示されることで、実はアートというのは暮らしの中にあるものを極力シンプルにして取り出そうとして現れた形なのかもと、ちょっと考えたりしました。

 

3階の展示室に入っていく廊下に映像作品があるのですが、ちょうどいい早さで切り替わっていて感激しました。変なことで感激しているのかもしれませんが、イライラしない速度で、しかもちゃんと観られるというのはすごいですよね。

 

展示を観たあとは、3階のカフェでお茶をしました。

 


初出:2011年4月22日